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7. 農山村の持続可能性への展望

  

(1)風景づくりによる農山村の持続可能性

“ふるさとリピーター” としてふるさとの風景づくりに取り組み5年目、地域住民の方から声を掛けて頂きました・・・「おかげで寿命が延びそうだよ」。

郷土は特に秀でた景勝があるわけではなく、いたって普通の農山村です。人口減少・高齢化・農林業離れ等により雑草や藪(やぶ)に覆われんばかりですが、その下には土地に暮らしてきた人々の営みの積み重ねがあり、また共存する生き物たちの命の輝きがあります。それらを生かした風景づくりが、地域の人たち、さらには地域を活性化する力を宿していることを確認することができました。

都市におけるアメニティ(快適環境)としての自然や自然公園等において保護されている自然と異なり、農山村の自然はその営みに直接手を掛け利用することのできる資源です。

かつての農山村は、自然の営みに働きかけ、その生長や実りをいただき、多くの人口を支え、その一部は都市へ出て都市の発展にも寄与してきました。農山村は人と自然との相互作用の世界であり、かつては相互活性化の状態にあったと言えるでしょう・・・それは農山村の本領です。

相互活性化により産まれるエネルギーは、かつての国の発展の根底・一端を担っただけの大きなものであり、かつ貴重な再生可能エネルギーです。

風景づくりにおいても活性化エネルギーを産み、享受することができます。それはつくる者を活性化し、見る者を活性化し、地域さらに社会全体へと波及することが期待されるものです。

農山村の風景もまた人と自然との相互作用の賜物です。農山村の風景はおおよそ農林業の営みを映しており、陽光や天水をいただき、よく手入れされ、作物の出来の良い田畑や山林はこの上なく豊潤な風景です。

そして風景は生活環境でもあります。かつての農林業の営みはそのままにして風景づくりであり、生活環境づくりでした。

風景づくりの実践体験から見えてきたのは、これまでとは逆の流れです。風景づくりは生活環境の改善であるとともに、農林業振興の環境づくりになります。雑草の繁茂する耕作放棄地や放置竹林における風景保全の取り組みは、農林業の再開を導きやすくするための維持管理作業になります。

時代の流れに抗し、持続可能な農山村を築くには、農林業振興と風景づくりとを連携し、状況によってはむしろ風景づくりを先行して取り組む必要があると考えます。

風景づくりは享受する側だけでなく、取り組む側にとっても様々な効能があり、内なる活性化をもたらしてくれます。

・風景づくりのスケジュールは基本的に季節・気象に委ねられます。春は草刈りシーズンのスタート、降雨の前には播種や植付け、夏の猛暑日には川に降り、冬は山の作業に入ります。風景づくりは自然のリズムに身をゆだね、健康的な刺激と発見に満ちた現実体験です。

・作業の大半は生き物相手の試行錯誤、計画→実行→評価→改善の繰り返しです。前進や後退を重ね、自然に委ね、自然を生かすノウハウが身に付きます。

・工作物に関わるところでは関連する知識や経験、それらに基づく応用力が求められる場面もあります。

・里山の風景づくりに際しては、大量に発生してくる伐採した木竹の活用に苦慮します。創意工夫が鍛えら、創造の世界が広がります。

・風景はモザイクです。土地所有者の利用・管理の仕方の違いが風景に表れます。そうした風景が人々から眺望される時、風景は公共性を帯びます。それは個人と地域との関係そのものです。風景づくりは個人としての自覚を促すとともに、地域さらにはグローバル(包括的)な見方を養ってくれます。

以上の風景づくりに取り組むことにより発現する効能を総じて言うならば、それは地球レベルでのテーマである持続可能社会の構築、SDGs(持続可能な開発目標)の実現に取り組む人材の資質として求められるものではないでしょうか。

そして風景づくりは常に未来志向です。

農山村の特性の象徴は里地・里川・里山という全く異なった資源が相互に入り組んで存在することです。かつての人と自然との相互活性化も、この三資源を組み合わせた複合的活用によるものでした。特有の生物多様性の源でもあります。

風景づくりに取り組むことにより得られる効能も、この三資源全てと向き合うことにより相乗的に発現されるように感じられます。

里地・里川・里山という三資源のセット(里海のあるところもあります)は、日本列島の自然と人とが織りなす風土であり、日本らしさの象徴の一つでもあります。また訪日外国人が抱く日本の印象として「ゴミが無くてきれい」というのがあります。農山村の風景づくりは日本の風土を浮き立たせ、美風の薫る活動であり、観光立国として魅力のベースアップに寄与するものと思います。

  

以上のような風景づくりの実践体験を通じて得られた知見から、施策としての農山村の風景づくりを提案したいと思います。

それは、都市住民を含めた広範な人々の参加による農山村の風景づくりです。

一.地域住民に活動を受け入れて頂ける土地の提供を募り、里地・里川・里山という三資源を含む活動エリア(共同管理地)を設定します。概ね区画整理が入っていない中山間地域で、耕作放棄地が拡大しつつあるエリアが候補地です。

二.活動エリア内において風景に表れている地域の課題を解消しつつ、潜在する原風景を浮かび上がらせ、自然の命輝く風景を創出し、農山村の活性化の基盤を築いていきます。

三.都市住民の参加により農山村-都市間の人の交流・循環を生み、また参加者各々が三資源を巡り相乗的な効能を獲得できるようにし、農山村・都市双方の持続的発展に資する人材育成に寄与します。

派生効果として、当初設定した活動エリアおよび風景づくりが周辺に広がっていくことを期待します。

この風景づくりは農林業振興策や定住移住策等と対となる施策であり、これらと連携して推進することが望まれます。

都市には都市の魅力があり、大きな雇用の場があり、地方から都市への人の流れが消えることはないでしょう。一方、農山村には農山村の魅力があり、その象徴の一つが “風景” であると思います。

肝要なのは都市-地方間に人流の循環を生み出し、強固な相互補完関係を築くことであり、農山村の風景づくりはその循環の原動力になるように思われます。

  

農山村は一見のどかばかりにして特段の個性が見当たらなくとも、人と自然との相互作用の結晶としての里地・里川・里山があり、共存する生き物たちの命の輝きがあり、分け入れば分け入るほどに発見や感動に満ち満ちています。言わば風景の玉手箱です。風景づくりは風景の玉手箱のなかに入り込み、手を掛け、磨くことができるのですから、こんなに楽しいことはありません。その光景は地域の皆さんの笑顔を呼び、遣り甲斐や愛着となって実ります。手掛けた山川草木は、咲いた笑顔は、ふるさとの風景となります。

風景づくりは “ふるさとづくり” であり “ふるさとリピーターづくり” です。

  

(2)古から未来につなぐ水田稲作

農地における最も好ましい風景づくりは農作物の栽培です。これまで私が取り組んできた風景づくりは、耕作放棄により植生遷移が進み大型雑草に加え木本類やタケ類が侵入しつつある状況において、更なる遷移の進行をくい止め、農作物栽培の再開を導きやすくするための維持管理作業になります。

農業とくに水田稲作が放つ風景は日本の原風景です。春の田起こし、クロ塗り(田土による畦塗り)、代掻き、田植え、青田、稔り田、稲刈り、はさ掛け(掛け干し)、苅田などの一連の作業風景は農山村の四季そのものです。

水田稲作は農山村の風景の主役であり、農業・農山村の持続性を担う基幹である(下記の根源的価値を含む)ことは言うまでもありません。

狩猟漁労採集により天然の食料を獲得していた縄文時代、目を見張る装飾・造形の土器がつくられ、煮炊きなどの調理に使われていたとのことです。当時の人々は自然界の事物に霊魂があると信じ、それを信仰していたとされています。森や海からのお恵みにも霊魂が宿り、土器を使った煮炊きはその霊力をいただくための儀式のようなものであったでしょうか。土は植物たちの生えいずる基盤でもあります。

日本に現存する最古の書物である古事記には、国づくりの神の登場がアシの芽吹きに例えて表現されています。

古代の人は、泥土から新たな命が生え出でる様に霊威を見止めていたということでしょう。この観念は太古の人たちの心の営みを引き継いでいるように思われます。もしかして、縄文土器のあの奇抜な造形は、文字なき時代の霊威の表現だったでしょうか。

そのような生活の後、大陸から稲作が伝播すると、低湿地に水田が拓かれ、さらに丘陵地にも広まり、今日の農山村の風景の土台が形成されました。

今、春の田の傍らに立ち、丹念に仕上げられていくクロ塗りの様子を見ていると、かつて稲作と同時に入ってきた弥生土器の端正さをイメージせずにはいられません。

土から練り上げてつくった器のなかに収めて自然の恵み(霊力)をいただくという点において、縄文土器による天然食料の調理と水田稲作とは同じ心の営みに立脚しているもののように思えます。

稲作の伝播当初、この列島の人々はこれをおだやかに受容し、急速に拡大させ、その後海外から幾多の作物が輸入されながらも稲作に異常ともいえるほど傾斜してきたとされます。それはこの列島が稲作にとっての好条件を有し、生産性が高く、保存を可能としたことなどがあるでしょうが、それに加え、いやそれ以前に、水田稲作が太古からの心の営みに沿い、それを大いに満足させるものであったからではないかと思うのです。

梅原猛氏は・・・日本人は弥生時代に大陸からの多くの渡来人とその技術・知識を受け入れたが、縄文時代からの土着の精神を捨て去ることはなかったとし、それを「縄魂弥才」と表現しました。そして同様の意味合いの言葉として佐久間象山(江戸時代後期)の「和魂洋才」を取り上げ、それ以前には和魂漢才があり、さらに和魂韓才があったかもしれないとしています(日本の深層、小学館)。

私には、伝統的なかたちを留める農山村の水田稲作は縄魂弥才のイメージそのものです。

ここで弥才は決して古びた技術・知識ではありません。水田稲作は、日本列島特有の酸性土壌という農作物栽培にとって致命的とも言える短所を湛水により一気に緩和し、さらに湛水-排水の繰り返しにより連作をも可能としており、これらは今日でも優れた長所です。

中村元氏は指摘します・・・ “「理」よりも「事」を、目に触れ、耳に響く眼前即今の事物を大切にし、それをつくづくと見とめ、わきまえることが、今に至るまで日本人の特色”(東洋人の思惟方法、春秋社)であると。

稲作は気候・気象に大きく左右され、農民はこれらに極めて敏感ですが、縄文時代の人々も天地の変に感覚を研ぎ澄ませ、食料とする植物や魚介類の生長具合を注視していたことでしょう。

日本列島の変化に富む環境と豊かな生物相、生きる基本としての食、これらの関係における体験の蓄積が、日本人の特色を生み育む基盤になっているように思われます。

上記のように、太古の人たちはイネにも霊力を見とめていたことでしょう。古代に書かれた記紀には「稲霊(いなだま)」が登場し、「田の神」信仰は様々なかたちで今日に伝承されています。

一方、唐木順三氏は指摘します・・・ “田作りは人間の恣意、我執を離れて、山河大地の自然に随順しながら、天地の恵みをここに結晶してゆく行事であった。一休が珠光にいった言葉をもぢっていえば「仏法は田作りの中にあり」である。”  (日本人の心の歴史、筑摩書房)

実に水田稲作は、神が宿り、仏道の世界でもあったということになります。まさに日本固有の神仏習合、それも純粋なかたちでのそれであり、水田稲作は「縄魂弥才」を超えた言わば「和魂外才」の世界であると言えるのかもしれません。

唐木順三氏はこうも指摘します・・・ “日本の農耕は園芸に近い。田圃は農地農場ではない、farmであってfieldではない。一枚の田圃は一つの芸術作品であった。”  (引用上記)

今、農業は従事者の高齢化や後継者不足などから危機的状況にあり、その維持・再興が叫ばれています。

農業振興の取組みにおいて先ず抑えるべきは、小規模で人力に頼る農業を続けてきた農山村部(概ね中山間地域)の田は「田圃」であり、区画整理がなされ大規模経営をめざす平野部(概ね平地農業地域)の「農地農場」とは区別すべきものであるということです。

私は、農山村の水田稲作は、この列島の自然と食との関係から培われてきた事物への関心・注視、わきまえとしての自然への随順・慈しみといった国民性を育み、またそれを精神基盤としながら海外から様々な知識・文化・科学を取り入れてきたこの国の営みの好例であり、そこに繰り広げられる風景は農山村の四季を演出し、それが多くの日本人にとっての原風景となっている点に根源的な価値があると考えます。

今は成果としての「米」、すなわち “身の糧” ばかりに価値が与えられ、過程を通して宿る根源的価値、すなわち “心の糧” としての価値が無視されてしまっているように思えます。農業・農山村が危機的状況にある現在、この根源的価値に光を当て、経済価値を付与し、フル活用すべきであると考えます。

  

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