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はじめに

地方農山村は今や都市への求心性に対し、その背後に取り残され、消滅可能性への警鐘が聞こえてきます。

自分自身、農山村に次男として生まれ、育ち、成人し、都市へ出て都市の住民・労働力の一員として生きてきました。今でも仕事の都合や生活の便利さゆえに、都市を離れられずにいますが、心の奥底には郷土の山川草木すなわち風景があります。

農山村の風景は、そこに暮らす人々が土を耕し、雑草と闘い、山を活用してつくり上げてきたものです。私の心の中にある郷土の風景は、親の労働の記憶も映し、自分の意志の土台を成しているようにさえ思われます。

今、郷土の風景を築いてきた人達は高齢となり、数少ない働き盛りの人達は土地から離れて職を持ち、耕作放棄地が広がり、見るからに鬱陶しい雑草が我がものとばかりに里を覆い、山は竹藪に蝕まれつつあります。

手助けを請う実家からの声が掛かったのは、そんな時です。私は、公共事業関連の職に就き、地域や環境に係る計画・設計に携わってきましたので、実家の手伝い作業は、着手して間もなく「ふるさとの風景づくり」という取組みとなりました。

居住地こそ都市に身を置いたままですが、職の経験を生かした労力の郷土へのUターンであり、恩返しです。結局、私は郷土の風景に操られて生かされてきた傀儡(かいらい)のようであり、またそうありたいと思う者です。

我が郷土は関東地方の丘陵~低山地の一角、ここに記すのは取組み5年間の経過です。

吉田 徹 (技術士)

  

実家の手伝い作業を始めた頃の話です。

耕作放棄地で草刈りをしていると、やはり草刈りをしている近所の老夫がいて、休憩時間に畔に腰を下ろしてのしばしの会話となりました。その老夫は腰痛を押しての草刈りとのこと、そしてため息をつくように言います「若いもんも勤めに出ていると土地のことになかなか手がまわらんようだ・・・」。それが私にとっての老夫最期の言葉となりました。

この風景づくりは老夫の言葉への私なりの応えでもあります。

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