人に快適な山辺の道
幹線道路が里地の底を走っているのに対し、この道は標高がやや上の山辺を走っています。山辺の地形に沿ってゆったりと曲がり、上り下り、その片側は山に向かう上り斜面、もう片側は里地の底に向かう下り斜面です。
自動車交通はほぼ域内のもののみで少なく、地域住民の自転車通学・通勤やウォーキング、域外からのハイキングやサイクリング等に利用されています。
歩く環境が整っていると高齢者の健康状態がよいという事例報告(日本老年学的評価研究機構)がありますが、この道路でウォーキングをする高齢者の姿もよく見かけます。
よいコミュニケーションの場でもあり、行き交う人同士あるいは沿道で農作業をしている人と会話している場面をよく目にします。時にはハイカーとの声の掛け合いもあります。
沿道に湧き立つ多様な印象
農山村は多様な印象を誘発する斜面の宝庫(2-2. 農山村は多様な印象を誘発する斜面の宝庫 -斜面の印象に着目して生かす)だと思いますが、この山辺の道はそれを体感することのできる絶好の場です。
歩を進めれば様々な方向から多様な印象が湧き立ちます。里山の山肌は雑木林の木漏れ日を受けて心地よさそう。急峻な山は厳しく、こちらの背筋も伸びる思い。下り斜面の方を望めば俯瞰やパノラマの開放感。緩やかな斜面に広がる里はのどかなたたずまい・・・等々。
これらの印象に加え、道路の上り下りに伴う身体的な負荷の強弱も重なり、風景は心身での体感となります。
道行と思い出の道標 沿道の大木
沿道には大木も見られます。近くに仰ぎ見る大木は圧倒的なボリュームの緑と概して個性的な樹形で、風景を印象的で潤い豊かなものにしてくれます。電柱・電線に切り刻まれた風景も修繕してくれます。
また大木は年輪を重ねて風格があり、しばしば擬人化され、感情移入の対象ともなります。小学生のとき、長い通学の道のりにおいて、沿道に点在する大木の一本一本が順次私を励まし引っ張ってくれました。ありがたいことにその多くが半世紀経った今も立ち続け、私の帰郷を迎えてくれます。時が経ち、人が変われば風景が変わるのも必然ですが、親密で存在感の大きい大木が変わらぬ姿で立ち続けてくれていると、ふるさとの風景はおおよそ保たれ、かつての思い出も鮮明によみがえります。
歩を進めれば大木は流れゆく風景の区切りとなり、ページをめくるように景色も思い出も入れ替わります。沿道の大木は道行の、またふるさとの思い出の道標です。
風景の維持管理者
沿道には日々庭先の手入れや農作業に勤しんでいる皆さんがいらっしゃいます。沿道の大木も守ってくれている所有者・管理者の方々がいます。こうした人たちは風景の維持管理の立役者です。
私が取組んできた里地内道路(この道)沿いの風景づくりは、雑草対策や草木による演出でした。道路管理者にもコンクリート擁壁の緑化などに取り組んでいただきたいところです。
持続可能性へ導く風景体験
私自身を振り返るに、この道を小学校まで徒歩で往復した6年間は、沿道の風景を心身にすり込む風景体験の6年間でもあったように思われます。今私がこうして風景について語り、風景づくりに取り組むのも、成長過程にある小学生のときの風景体験が私の思考の基底をなしているからのように思われます。このような体験環境は、現在社会のテーマである持続可能性について考え、その目標であるSDGsに向けて行動する上で土台を築いてくれるように思われます。
地域の宝・将来への生命線
この山辺の道は歩行者にやさしく、散策、健康づくり、コミュニケーション、来訪者との交流、そして広く風景体験環境といった多様な役を果たしています。さらに変わらぬふるさとの風景は、過去を鮮明にし、未来への示唆となります。
この道は地域の宝であり、地域づくりの軸であり、地域の将来へつなげる生命線であると言っても過言ではないと思います。