集落を包む山並みの東端に位置する山
私の風景づくりの取組みは里地内道路を軸とした延長300メートル程のエリアですが、その東端にその名も “東山” という山があります。山の連なりの突端に位置し、高さ70メートル程、ほぼ円錐形の山容で、その西側に広がる集落からよく眺められる存在です。その集落に向いた山麓に小さな祠(ほこら)が鎮座しています。コンクリート製でほとんど竹藪(やぶ)に埋もれた状態ですが、大切な祠の一つで、かつては御神木とおぼしき大木もあったと聞きます。すぐ南側の山麓には比較的規模の大きな墓地もあります。
集落の東方、集落を囲む山の連なりの突端に位置するその名も “東山”。山麓に祠(ほこら)や墓地があります。右手前は馬 頭観世音碑の頭部。
神の山・上る太陽への信仰
この祠を覆う竹藪の伐採をしながら、ふっと頭に浮かんだ一冊の本があります。それは「梅原猛著作集6 日本の深層、小学館」です。そこには次のようなことが書かれています。
“人間が死ぬと、その霊は山へ行き、(中略)清められ、徐々に徐々に上に昇っていき、やがて昇天して神となる。” ”連なっている山岳の、里に近い端の山は、古代日本人によって死霊のいく山であるとして崇拝されるのである。端山の形が円錐形である場合、それはまず神の山と見られていたと考えてまちがいはなかろう。”
”太陽は東の空から上がって、西へ沈む。それは生と死なのである。太陽は夜になってひとたび死んで、またその翌日蘇って、東の空から昇るのである。” ”日本人は古来から、朝、東の空に上る太陽をとくに崇拝したが、それは死の世界から復活した太陽を祝福してであった。” ”われわれも死ぬとあの世へ行き、そしてまた子孫のだれかになって甦るというわけである。”
日出ずる山へ掛けられた願い
私は想像せずにはいられません・・・
この里を切り拓いた人々は、東山を神の山と見て、その麓に死人を埋葬したのではないか。そして子孫となっての甦生と、死の世界から復活して東山の向こうから昇る太陽とを重ね合わせ、その精気に託し子孫繁栄を願ったのではないか・・・。
馬の供養碑に込められた思い
それからしばらくしての突然の出来事でした。
東山から150メートル程離れた集落内の畑の一角に石碑が建っています。日清日露戦争に徴用されたり、昭和初期に斃死(へいし、動物が突然死ぬこと)した馬の供養のために建てられた「馬頭観世音」です。この石碑、子供のころから腑に落ちずに心の隅に引っかかっていたことがあります。それは石碑の向きです。道路に面するでもなく、地形に沿うでもなく、なんとも落ち着きがないのです。今回改めて刻字を確認しようと石碑の裏に回った時です・・・それはまるで後光を放つかのごとき光景で立ち現れました・・・ “東山” です。
馬頭観世音碑は東山に向けて建てられていたのです。おそらくは当事者が家族同様に育て、共に働いてきた愛馬たちのことを思い、家族同様にその霊が東山へ行き安らかならんことを願ったのではないか。霊界においても心を寄せ合い、永遠の関係を祈ったのではないか・・・。
こだまする古の声・湧き上がるかつての風景
東山と石碑とが重なる位置、その一点に立つ時、風景は両者のみに絞られ、古の人の思いがこだまし、かつての風景が湧き上がってくるかのようです。石碑の背後に広がる畑は土壌が薄く岩質で、畑としては不適です。またこの周辺にはヤブカンゾウの群落が多く見られます。
ここはかつては畑ではなく牧場で、牧草としてヤブカンゾウを植えたのではないか・・・そんな風景が見えてくるのです。
馬頭観世音碑周辺のヤブカンゾウ群落。八重の橙色の花を付けます。
里の霊山としての見立て
“東山” は私の取組みにおいて風景の核心であり、風景づくりの基点となりました。東山は「里の霊山」、東山へ向かう道路は「参道」、馬頭観世音碑脇を走る道路は「馬頭観世音通り」、そう見立てました。
大場磐雄氏はその著書「祭祀遺蹟-神道考古学の基礎的研究-、角川書店」において、山岳崇拝について
一.浅間型(アサマは富士山の古名)
雲表に高く聳立する高山大嶽、噴火現象等を有して特別に畏敬せらるる山。
二.神奈備型(かんなび、一説として神がこもること)
平地の中の集落の近くにあり、円錐形または笠形を呈し、樹林に覆われた山。
の二タイプがあるとし、後者は全国各地にすこぶる多いとしています。